「※個人の見解です。所属組織・団体とは一切関係ありません」は通用するのか
まずはじめに、このブログは日記的なものとして立てたものの、
日記よりこういう考察を書きたくなったので、これからは考察を書いていきます。
題にある通り今回は「※個人の見解です」について。
これに関しては前々から思っていたけれど、ちょうど話題になるニュースがあったので。
吉野家の「生娘をシャブ漬け戦略」のニュースで、内容はさておき、
もしこの取締役が講演の前後で「個人の見解で吉野家は関係ありません!」
と宣言しておけば今回の発言は「ああ個人の見解なのか」となったのか否か。
常識的に考えるとそんなわけはまずないだろうとは思うものの、それはなぜか。
まず一番に考えられるのは、早稲田の講座はデジタルマーケティングの総合講座の
マーケティング理論をレクチャーする講師として呼んだ。つまり会社の取締役である
氏として呼んだということだから、というのが考えられそうだ。
もちろん報酬が個人に対してなのか会社に対して支払われているのかは不明だが、その部分は実質関係ない。
なぜなら主催がどのようなものとして呼んだかではなく受け手が「誰として」見るか、受け取るかが重要であるからだ。
マーケティング講座において氏は吉野家の取締役として講義を行う者、と見られるのは自然なことと思われる。
だから今回事前にもしくは事後に「※個人の見解です」と付け足したところでこれが全く正当ではないということは明らかだ。
ただ、問題はこのどういう者として受け手が見るかという部分がネックになる。
例えば、2年ほど前に東大の准教授がツイッターの差別発言で懲戒処分されたニュースがあった。
まあこれは直接的すぎる差別発言だったから処分されて然るべきものではあるし、
ツイッターのプロフィールに所属を書いてあればその所属にいる者として見るんだろうなと受け取られるのは自然だろう。
あと、これは今回の話題とは少し異なるけども、もしツイッターとか所属先が不明な状態で、ある人が自分の思想や見解をべらべらと差別的な発言をしている場面を考えてみよう。
その後で、「あの人〜の会社(学校、家などの組織・団体)の人なんだって」みたいなことを聞いたあと、どんな印象を受けるだろうか。
「あんな人があの組織にいるんだ・・・」と思うか、
「そうか、まあそういう人もいるよな」と思うか。
別にどちらが間違っているとかではなく、どちらも自然な受け取り方であるように思われる。
もちろんここで、組織と個人を同一視するのは間違っているという意見も妥当だとは思うけれど、それは次の段階であって、どちらも存在しているということは事実だ。
だとすれば、「※個人の見解です」と書いて個人と所属とを完全に分離させて理解できる人が全てではない限り、それを想定した上で話さなければならないということになってしまう。
もちろん多くの人たちがそう思うからといって何でもかんでも制限したほうがいいというわけでもない。
それは「痴漢は露出の多い服を着るほうが悪い」というぐらい暴論になってしまう。
ただ、個人を完全に所属と分離させて考えることが可能かどうかというのは結構難しい問題だと思う。それはネガティブにも働き得るし、逆にポジティブにも働き得るし、どのようにも働かないかもしれない。
そもそも日常的に我々は所属、属性で人を判断する一面がある以上、
ある主義・主張の場面に限って「※個人の見解」を持ち出したとしても、
それは困難だ。
「※個人の見解です」と宣言することで分離できるのは、せいぜい
「ある主義・主張を抱く人物が〇〇という組織に所属している」ということと
「組織として〇〇という主義・主張をしている」ということが分けられるだけで、
私達がその個人はもちろん組織に抱く印象には程度の差はあれ変化する。
もちろん主義主張は自由だけれど、それと受け手の受け取り方もまた自由。
文脈と状況が影響するけれど、いずれにしても自分の発言がどういう文脈で
受け取られるかは少なくとも考えることができたら
この世の中に炎上なんてものは存在しないのだろうけれど。